愛と憎しみの果てに(22)
2016年01月09日
「海に行きたい」長い沈黙の後奈保子が口を開いた。
喫茶店を出たらもう終わりだと思っていた私はその言葉が意外だった。しかしそれは奈保子の最後の願いだった。私たちは喫茶店を出ると駅前でタクシーを拾い小倉ヶ浜の運動公園に向かった。野球場の前で車を降り、海へ続く道を私が先に立ち歩いた。海岸に出ると私は南北に広がる砂浜を南に向かって歩きだした。奈保子は黙ったまま後をついてきた。聞こえるのは冬の海の静かなさざ波と風の音だけだった。私はいたたまれなかった。いっそ奈保子にぼろくそに恨みや辛みを言ってほしかった。そうすれば私の心の自責の念も少しは和らいだかもしれない、しかし奈保子は何も言わなかった。ただ黙って歩いていた。距離にして2キロほどだったが私にはそれ以上長く感じた。
海岸から細い坂道を登るとバスが通る国道が見えてきた。私たちはバス停のベンチに腰掛け、奈保子の乗るバスを待った。程なくしてバスはやってきた。私たちは腰を上げ扉が開くのを待った。
「それじゃ」私はそういうのがやっとだった。
奈保子は頷きステップに足をかけバスに乗り込んでいった。バスは奈保子が座席に座ったのを確認して動き始めた。これでもう二度と奈保子に優しい言葉をかける事は出来なくなるそう思うと奈保子が可哀相で胸が締め付けられ涙が溢れてきた。私は奈保子の乗ったバスを見送ると国道を渡り駅前行きのバスを待った。バスに乗っても奈保子の事を思うと涙が止まらなかった。私は駅前の映画館に入ると後ろの席に座り声を押し殺して涙を流した。
家に帰った私は鈴木の彼女を呼び出し自分の気持ちと奈保子と別れた事を伝えた。彼女は私の気持ちは嬉しいけど馬鹿な事は辞めて奈保子とやり直してほしいと言った。しかしもう後戻りはできなかった。
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愛と憎しみの果てに(21)
2015年12月29日
冬休みに入り年末ぎりぎりまでバイトして私は帰省した。帰ってすぐ奈保子に連絡し会いたいと言ったが年の瀬で忙しく年明けの3日に会う約束をした。帰省してからも私の頭の中は鈴木との事で一杯だった。鈴木には中学3年の頃から付き合っている彼女がいた。彼女は私の小学校からの同級生で初恋の人だった。中学1年の時告白したがあっさり振られた。それからずっと片思いの人だった。そんな彼女と鈴木が付き合い始めたのは中学2年の修学旅行の時だった。学校の成績も良かった二人はお似合いのカップルだった。私も彼女の友達と一緒になって二人を応援した。3年に進級し同じクラスになった私と鈴木はより一層親しくなっていた。高校に進学してからも同じ弓道部に入り、失恋して退部し陸上部に移った時暫らく口も利かない時期もあったが高校を卒業するまでは鈴木は間違いなく親友だった。そんな鈴木を遠く感じるようになったのは共同生活を始めてからだった。鈴木は高校時代とそれほど変わっていなかった。変ったとすればそれは私のほうだった。東京に来てからの私はもうそれまでの私ではなかった。奈保子に事件の事を告白して以来鈴木と私は本当の親友ではないという思いが強くなっていた。鈴木と私を繋いでいたのは鈴木の彼女の存在だった。
年明けの2日、中学時代の同窓会があり私は鈴木の彼女に再会した。彼女は病気で留年し翌年京都の看護学校に進学していた。鈴木は卒業を控え進路を考えたいからと帰省しなかった。私は鈴木と一緒に生活しその言動から鈴木が彼女の事を本当に愛しているとは思えなかった。私は彼女のためを思い、彼とは別れたほうがいい、このままだと二人とも幸せにはなれないと忠告した。彼女はただ笑って私の話を聞いていた。私は彼女と会うまではただ友達として彼女に鈴木の事を話すつもりだった。しかし彼女と話しているうちに彼女への想いが募っていた。 同窓会が終わり家に帰ってからも彼女の事が頭から離れなかった。翌日は奈保子と会う日だった。私はどうしていいか分からなかった。奈保子は一度別れた私を許しまたやり直してくれた。私にとっても過去の事件の事を告白したたった一人の人だった。そんな奈保子がいるのに他の人を好きなっている自分が信じられなかった。しかし鈴木の彼女への私の気持ちはどうする事も出来なかった。私は一晩中考え奈保子と別れる決心をした。鈴木の彼女が私と付き合うという確証は何もなかった。ただ心の中に好きな人がいながら奈保子と付き合い続けることも私には出来なかった。
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愛と憎しみの果てに(20)
2015年12月28日
手紙を読んで大変ショックでした。弘史さんにとってはとても辛い事だったと思います。
話は変わりますが弘史さんは正月は宮崎に帰るんでしょ?わたしも正月は宮崎に帰ります。
奈保子
手紙を読み終え私はほっとした。奈保子は自分のことを理解し付き合うと言ってくれた。それまで真っ暗で出口の見えなかった私の心に希望の灯が点った気がした。私はあの事件が自分にどんなふうに影響したのか、はっきりとは分からなかった、が自分の人生に影響を与えた事は間違いないと確信した。私はすぐに返事を書いた。
奈保子へ
俺のことを信じてくれてありがとう。今まで誰にも話せなかった事を奈保子が聞いてくれて心が楽になりました。
ここまで書いて私は筆を止めた。そしてまた奈保子を心配させてしまうかもしれないと思ったが今の自分の気持ちを正直に伝えようとその時私が抱えていた問題を後に続けた。
ところで前にも話したと思うけどやっぱり鈴木とは気が合わない気がする。
弘史
こう書き添え私は手紙を奈保子に送った。その時の私はまさかこれが奈保子への最後の手紙になるとは思ってもいなかった。
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愛と憎しみの果てに(19)
2015年12月27日
アパートに引っ越して二ケ月ほど経った一一月私は奈保子に会いに奈良へ出かけた。少しでも長く一緒にいられるようにと朝早くアパートを出て新横浜から始発の新幹線に乗った。近鉄奈良駅に着いたのは昼前だった。奈保子は私のためにサンドイッチを作って来てくれた。私たちは奈良公園の登大路園地の林の中で奈保子が作ってきたサンドイッチを食べその後東大寺や正倉院を見て回り若草山、春日大社と周り公園を散策した。奈保子は楽しそうにしていたが私は心から楽しむことができなかった。好きな人と一緒にいるのだからもっと楽しいはずなのに何故か心が沈んでいた。私は疲れているからだろうと思った。奈保子と付き合うようになり住むところも変え環境は変ったがまだそれ以前の自分を引きずっていた。さらに親友や後輩との同居で気を使い眠れない日もあり精神的に疲れていた。興福寺近くまで来る頃にはもう日が落ち始めていた。私は宿をまだ決めていなかった。近くの旅館やホテルを探したが週末ということもあってどこも満室だった。それからまた何軒か回ってようやく猿沢池のほとりの旅館が見るに見かねて布団置きに使っている部屋でもいいならと言ってくれた。私は奈保子も一緒に泊るものと思っていたが奈保子は外泊許可ももらってないし着替えも持ってきてないから寮に帰ると言った。そんな奈保子を何とか説得し、彼女はしぶしぶ近くのコンビニで替えの下着を買ってきた。私たちが通されたのは四畳半程の小さな部屋でそこには布団が二組敷かれていた。夜も更け私たちは床に就いた。私は奈保子の布団に入りキスをし胸に触れ体を求めたが奈保子は笑いながら体をよじってそれを拒んだ。私はそんな奈保子を見てそれ以上強引には出来ず自分の布団にもぐりこんだがなかなか寝付けなかった。翌朝旅館を出た私たちは奈良駅近くの喫茶店で朝食をとり電車で京都の嵐山に向かった。私は窓の外を流れる風景を眺めながら昨夜のことを考えていた。正直言って私は奈保子に拒まれたことで不機嫌になっていた。電車の中では奈保子は何も言わなかったが京都駅から乗った嵐山行きのバスの中で私が寝不足だと言うと奈保子は冗談を言って私をからかった。私はただ苦笑いするしかなかった。嵐山に着くと日曜日ということもあり観光客であふれていた私たちは渡月橋や天竜寺付近を巡り歩き橋の袂のお茶屋でお菓子を食べた。私は初めてだったが奈保子は何度か来たことがあるようで楽しそうにあちこち案内してくれたが私は心に霞がかかったように気分が重かった。茶店を出た後私たちは右京区の府立植物園に立ち寄り、その近くの食堂で昼食をとった。まだ東京に戻るには時間が早かったが奈保子が宇治で茶道教室があるからと言うので私たちは京都駅に戻った。私は新幹線の切符と宇治までの切符を買い奈保子に渡し奈良線のホームで奈保子を見送った。奈保子を乗せた電車は右に大きくカーブを切り鴨川に架かる鉄橋を渡り見えなくなった。一人になると急に寂しさがこみあげてきた。それとともに何故奈保子と一緒にいても心から楽しめないのだろうという思いが湧きあがり胸を締め付けた。
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愛と憎しみの果てに(18)
2015年12月26日
四月、三年に進級し私は白山キャンパスに通うことになった。田んぼや畑に囲まれのどかな雰囲気だった朝霞とは対照的に白山は隙間なくビルや住宅が密集していた。専門課程の講義が始まっても私は法律の勉強に興味が湧かず授業中も小説や心理学、人生論の本ばかり読んでいた。大学には気軽に話せる友人達がいる、バイト先にも気心の知れた同僚がいるそれにも拘らず私は不安と孤独感に苛まれ夜も眠れない日が続いた。何故こうなってしまったのだろう私は自問しそれれまでの人生を振り返った。しかしいくら考えても答えは見つからなかった。私はもう限界だった。自分自身ではどうすることもできなかった。
六月になり私は浪人時代に別れた奈保子に連絡を取った。奈保子は高校を卒業後奈良の看護学校に進学したと前年の夏帰省した際同じ看護学校に通う同級生から聞いていた。私は図書館の全国電話帳で電話番号を調べ学校に電話した。しかしその時奈保子は東京に修学旅行中で不在だった。私は親戚の者だと嘘を言って彼女が入っている学生寮の住所と電話番号を教えてもらった。自分から別れておきながら今更連絡できた義理でないことは十分わかっていたが私は自分の近況ともう一度やり直したい旨の手紙を書き奈保子に送った。あの時の私にとっては奈保子だけが生きる希望だった。私は祈るような気持ちで奈保子からの返事を待った。しかし手紙を出してから五日経っても奈保子からの返事は無かった。私は半ば諦めかけていた。手紙が届いたのはそれから二、三日してからだった。家に帰り郵便受けを開けると見覚えのある字の手紙が届いていた。奈保子からだった。私はすぐに封を開けエレベータの中でそれを読んだ。
今目の前にあるロウソクにマッチで火を灯すのは簡単だがそれが正しいのか間違いなのか今の私には分からない。
私は新しい生活にも慣れようやく貴方のことも整理が付いたのに今頃手紙を寄こす貴方の気持ちが分かりません。
貴方も私のことは忘れて新しい人を見つけてください。さよなら。
奈保子
彼女の言うように私ももう一度やり直すことが正しいのか間違っているのかは分からなかった。しかしもし間違っているとしても私は彼女の優しさに救いを求めるしか他に道はなかった。私は奈保子に会いに行くことに決め彼女に電話した。突然の電話に奈保子は戸惑っていたが橿原の八木西口駅で待ち合わせる約束をした。
品川駅から新幹線に乗り京都駅で近鉄京都線に乗り換え八木西口駅に着いたのは昼過ぎだった。東京を出る時は降ってなかった雨も京都に近づくにつれ雲行きが怪しくなり橿原に着く頃には本降りになっていた。私は改札を出ると待合室の長い椅子に腰掛け奈保子が来るのを待った。私はズボンのポケットから煙草を取り出し火を点けると気持ちを静めるようにゆっくりと煙を吐いた。煙草を吸い終わり窓の外を見ると藍色の傘が駅の入り口に近づいてくるのが見えた。その歩き方は奈保子に間違いなかった。私を見つけると奈保子ははにかみながら駆け寄ってきた。それは三年前と同じ笑顔だった。あいさつを交わし私たちは近くの喫茶店に入った。久しぶりに会って話すこともいろいろあったはずなのにその時何を話したか覚えていない。奈保子は通っている茶道教室のお茶会が宇治であるから一緒に行こうと誘った。私たちは喫茶店を出ると電車で宇治に向かった。私は茶道の経験は全くなかったが隣に座った奈保子の見よう見まねでお茶と菓子をいただいた。奈保子はそんな私を見て楽しそうにしていた。お茶会が終わったのは夕方近くだった。それまで降っていた雨も上がり雲間には青空が覗いていた。私たちは宇治から京都駅行きの電車に乗った。京都駅に着くまでの間二人とも何も話さなかった。切符を買って改札口に向かう間私は何か言わなければと思ったが言葉が思い浮かばなかった。そして別れ際思わず結婚しようと口走っていた。奈保子は驚いた顔をしていた。私も言った後から馬鹿なことをしたと後悔した。三年ぶりに再会したばかりなのに結婚を口にする自分が信じられなかった。
奈保子と付き合い始めたと言っても奈良と東京では月に何通かの手紙と電話のやり取りだけで私の生活は以前と何も変わらなかった。ただ奈保子とやり直すことができたことで私の中にあった孤独感は少し薄らいでいた。しかし漠然とした不安はまだ心の中に残っていたそれは自分が今の生活に満足していないからそう思うのだろうと私は思った。その年の夏休み私は宮崎に帰省した。奈保子は看護学校の友人達と小浜に旅行し遅れて帰省した。私は奈保子が帰るのを待って家の近くの海岸に遊びに誘った。奈保子の家から私の家の最寄り駅までは電車を乗り継いで1時間程の距離だった。私たちは駅で落ち合い近くの海岸まで歩きテトラポットの上に腰掛けた。私は途中京都で買った水晶のペンダントを奈保子に渡した。それからしばらくは取り留めのない会話が続いたがふと話が途切れ二人とも押し黙った。私は奈保子の肩を抱き寄せその口びるにキスをした。
夏休みが終わり東京に戻った私は長兄のマンションを出ることにした。すれ違いの長兄との同居はもう限界だった。その頃中学、高校と仲の良かった親友が高校の後輩と一緒にアパートを借りて住んでいた。親友が引っ越すとき一緒に住まないかと誘われたがその時は大学から遠すぎるからと断った。しかし今となってはこのまま長兄と暮らすよりはと思い引っ越すことにした。九月の中旬私はレンタカーを借り友人に東山のマンションから川崎市のよみうりランド前駅近くのアパートまで荷物を運んでもらった。六畳と四畳半台所、風呂トイレ付きのアパートでの3人の共同生活が始まった。
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愛と憎しみの果てに(17)
2015年12月25日
「君の面影を追い求め
荒れ果てた荒野をさまよい歩く
どこまで行けば
心安まる別天地があるのだろうか」
これはその頃の日記に書いた詩で当時の私の心情がそのまま綴られている。私は自分の想いを彼女に打ち明けることも出来ず悶々とした日々を送っていた。そんな私の気持ちを知っているのはバイト先の先輩だけだった。青森出身のその先輩は同じ地方出身の私に親切に仕事を教えてくれた。コーヒーの淹れ方やスパゲッティ、パフェの作り方もみんなその先輩に教わった。そんな先輩に私も親しみを覚え私生活のことも話すようになっていた。翌年の三月その先輩が家業を継ぐためバイト先を辞めることになった。先輩は私のために彼女とその友人を飲みに誘ってくれた。場所と時間は彼女たちに決めてもらい、六本木駅で待ち合わせして私たちが向かったのはキサナドゥというディスコだった。ヤシの木や砂、貝殻でトロピカル風に飾り付けられた店内は真冬にもかかわらずアロハシャツやTシャツ姿の男女で溢れていた。先輩と私はなんとなく場違いの場所に来てしまった気がしてお互い顔を見合せた。空いている席に着きそれぞれ飲み物を注文し、しばらくして彼女と友人はダンスフロアーへ降りて行った。私と先輩も少し戸惑ったが彼女たちの後に続いた。ディスコへは大学の友人達と二回ほど行ったことがあったが私の踊りはとても見られたものではなかった足のステップも分からずただ音に合わせて体や手足を動かしているだけだった。先輩もお世辞にも上手いとは言えなかった。それに引き換え彼女たちは音楽のリズムに合わせステップを踏み上手に踊っていた。そして私はきらめく光の中で舞い踊る彼女をまぶしく見つめていた。激しいビートの曲が何曲か続いたあと次第に照明が暗くなりミラーボールの光が回転しメリージェンの曲が流れ始めた。フロアには幾つかのカップルが体を寄せ会い踊っていた。私も彼女を誘った。私は彼女の腰に軽く手を添え、彼女も私の腰に手を回した。生温かい彼女の体に触れる手が微かに震えていた。それは私にとっては心躍る夢のような時間だった。その店で暫らく過ごし私と先輩は自宅に帰る彼女の友人と別れ彼女が姉と住んでいるマンションに向かった。彼女は千葉出身で同じく都内の大学に通う姉と一緒に暮らしていた。私たちはキッチンのテーブルを囲み三人でまた飲み直した。いろいろ雑談しているうちに話は彼女の恋愛の話になった。彼女には二年近く付き合った彼氏がいたが半年ほど前に別れたことその彼は彼女に対して冷たいけれどそれでも好きだということを話した。私はもう何も言えなかった。彼女の元彼のことは何も知らなかったが彼女がそれほど好きな彼から彼女を奪う勇気も自信も私には無かった。その夜はそのまま彼女のマンションに泊まり先輩と雑魚寝した。翌朝目を覚まし窓の外を見るとうっすらと雪が積もっていた。私と先輩は彼女が用意してくれたコーヒーとトーストで朝食をとり彼女に礼を言ってマンションを出た。駅までの道すがら先輩は失恋した私を慰め、いい人がきっと現れるから気を落とすなと元気づけてくれたが白と黒の雪景色のように私の心は沈んでいた。
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愛と憎しみに果てに(16)
2015年12月24日
年が明け私は幾つかの大学を受験し文京区白山にあるT大学の法学部に合格した。特に法律の勉強がしたかった訳ではなく三兄がそうだったからという単純な志望動機でしかなかった。T大学は白山と埼玉の朝霞台それに鶴ヶ島にキャンパスがあり一,二年の一般教養は埼玉の朝霞台三,四年は白山そして体育の授業は鶴ヶ島と三つに別れていた。私は大学に入学したら陸上をやりたいと思っていた。高校時代県の大会で三位になり福岡の大学や企業から勧誘されたが当時の私はただ東京の大学に行きたいという思いが強くそれを断った。浪人しているとき自分に自信が持てなくなったのも陸上を辞めたからではないかと思っていた.しかし私にはそんな余裕はなかった。学費は母や兄達が援助してくれたが生活費は自分でアルバイトをして稼がなければやって行けなかった。結局私は陸上をやることを諦めた。私はアルバイト情報誌で原宿駅近くの焼き鳥屋を見つけそこで働くことにした。
大学に入学しても予備校時代と変わらない生活だった。昼間は朝霞のキャンパスに通い夕方からは原宿の焼き鳥屋でアルバイト。変ったのは予備校が大学になっただけだった。大学では少人数の語学クラス内で何人かの友人ができた。そしてその友人の友人や知り合いといった具合に増え十人位のグループになっいた。彼らとは卒業まで一緒で卒業時にはみんなで伊豆にレンタカーを借りて卒業旅行に出かけた。しかし私はその直前に東京に住む叔母の義母が亡くなり旅行には参加できなかった。その時の写真には私以外の全員が笑顔で映っている。彼らの出身地は九州の熊本や地元東京,近県の埼玉、千葉それに新潟、北海道とさまざまだった。彼らとは一緒に講義を受けたり学食でよく雑談をしていた。その中でアルバイトをしているのは私ともう一人だけで他は親からの仕送りだけで十分生活できているようだった。彼らとはときには一緒に池袋や新宿に飲みに出ることもあったが、それは数えるくらいで自然と学内だけの付き合いになっていた。私の中に恵まれた彼らの環境を羨む気持ちとともに自分の置かれた境遇を歯痒く思う気持ちがあったのは確かだった。彼らと付き合っていくうちに私は自分が彼らとは何かが違うと感じ始めていた。彼らは普通の学生らしく屈託なくサークルの話や音楽、趣味の話に興じていた。しかし私は表面上は彼らの話を聞き相槌を打ったりしていたが心の底から楽しむことはできなかった。私はそんな自分が嫌でたまらなかった。何故友達と話をしていても楽しむことができないのだろう。その疑問は時間が経てば経つほど私の中で大きくなっていった。そして友達との関係だけでなく日常生活でも何を見てもやっても心から楽しいと思えなくなっていた。私は以前にもまして小説や心理学、哲学,人生論の本を読み漁った。
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愛と憎しみの果てに(15)
2015年12月23日
母と三兄が用意してくれたお金を払い私は予備校に入校した。それに合わせバイトもマンション近くのレストランに替わることにした。予備校に通い始めても私は相変わらずだった。授業はまじめに受けたが家では教科書を開いても集中出来ず勉強もせず本ばかり読んでいた。予備校へ通い始めて二カ月程経った頃私は一人の女子学生と知り合った。授業の休憩時間隣に座った彼女がノートを見せてほしいと声をかけて来た。私にとっては東京で初めて出会った同年代の女性だった。それから私たちは一緒に授業を受けたり、喫茶店へ行くようになった。彼女は東京生まれの東京育ちで両親が仕事で海外に行っているため叔父さんと一緒に東中野に住んでいるということだった。彼女は服装も喋り方も都会的だったが顔立ちがどこか私の母に似ていた。そんな彼女に私は親近感を覚えた。年の瀬も迫った十二月の或る日受験を控え田舎に帰れない私のために母から米や餅,柿が入った荷物が届いた。もう夜も遅かったが私は彼女に柿をあげようと思い電話して会う約束をした。
私は紙袋に柿を数個入れ待ち合わせ場所の代々木駅へ急いだ。予備校以外で彼女と会うのは初めてで私は少し胸がときめくのを感じた。代々木駅で落ち合った私たちはどこに行くというあてもなくそのまま山手線の外回りの電車に乗りこんだ。私たちは秋葉原で中央線に乗り換えお茶ノ水駅で電車を降りた。そこから千代田線の新御茶ノ水駅でまた電車に乗り表参道の明治神宮前駅に向かった。改札を出て地上に出ると道の両脇の街路樹には年末恒例のイルミネーションが飾り付けられいやがうえにもクリスマス気分を盛り上げていた。私はお袋から送ってきたと言って持ってきた柿の入った袋を彼女に渡した。彼女は柿のプレゼントに不思議そうな顔をしていたが快く受け取ってくれた。私たちは恋人同士のように手を繋ぎ表参道を青山方面に歩いた。私はもちろん楽しかったが彼女も満更でもないようだった。私たちはそのまま渋谷駅まで歩きまた山手線の外回りの電車に乗った。原宿駅を過ぎると代々木駅は直ぐだった。
私たちはホームのベンチに腰掛け中野方面行きの電車が来るのを待っていた。私はもう少し彼女と一緒にいたかった。そして思い切って彼女に家に行ってもいいかと尋ねた。彼女はいいよとあっさり答えた。私はてっきり断られると思っていたので彼女の返事に驚いた。そして何故か急に不安になり自分から行ってもいいかと聞いておきながらやっぱり止めておくと口にしていた。彼女はわけが分からずきょとんとしていた。電話で会う約束をしたとき私はただ会って柿を渡せればいいと思っていた。彼女の家まで行くことまでは考えていなかった。高校時代二人の女性と付き合ったが私は手さえも握れないほど奥手だった。やがて電車が到着し彼女は帰って行った一人になって私は彼女の家に行かなかったことを後悔していた。
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愛と憎しみの果てに(14)
2015年12月22日
高校を卒業した私は東京の予備校に通うため上京した。この頃には中学の時の事件のことは完全に忘れ去っていた。
東京では長兄のマンションに同居することになった。長兄は神田にある中華料理店のマネージャーをしていた。朝は十時ごろ家を出て帰りは夜の十二時を過ぎることもあった。長兄とはひと回り年が離れていたのでいっしょに暮したのは小学校に上がる前までくらいだった。母の仕送りだけでは生活できないので長兄の紹介で新橋のすきやき屋でアルバイトをすることにして予備校は学費の関係から後期から通うことになった。東京へは母も一緒に上京した。途中広島にいる三兄の所に立ち寄り長兄のマンションに三日ほど滞在し東京見物をして帰って行った。その母を新幹線のホームで見送るとき私は寂しさとともに何か大事なものが私の心から無くなるような不安を感じた。
母が帰ったその日からすきやき屋でのバイトが始まった。昼前、長兄と一緒に店に行き店長を紹介されそのまま仕事に入った。食器の片付けや皿洗いが主な仕事で朝一〇時から午後三時までの時間だった。最初の一ヶ月は東京での新しい生活に慣れるのに精一杯だった。それまで何もかも母にまかせっきりで簡単な料理は作れたが洗濯などしたこともなかった。それに人の多さとバスや電車の乗り継ぎも慣れないことばかりだった。それでも二ヶ月程経ちそんな生活にも慣れてきた頃一人で部屋にいると無性に寂しさや不安を感じるようになっていた。長兄とは朝起きた時顔を合わせるぐらいでバイトが終わって帰ってきてもそれから寝るまでは一人きりだった。その頃私には高校時代から交際している一学年下の彼女がいた。私が奈保子と付き合い始めたのは高校三年の初夏だった。私は陸上部、奈保子はバスケット部に入っていた。私は彼女といつ出会ったのかはっきりとは覚えていなかった。体育館で彼女が練習している時なのか廊下ですれ違った時なのか思い当たらなかった。ただ当時陸上部の部室とバスケットの女子の部室は隣会わせだった。もしかしたらその時彼女と出会ったのかもしれない。私は陸上部のマネージャをしている彼女の同級生に頼み奈保子に付き合ってほしいと伝えてもらった。返事を聞くため部活が終わった部室の前で私は奈保子と初めて言葉を交わした。当初彼女は付き合っている人はいないが好きな人はいると断ってきた。私がそれでもどうしても付き合いたいと言うと奈保子は漸く考え付き合ってもいいと言った。その奈保子のことを想っても寂しさは消えなかった。好きなはずなのに心からそう思えない自分がそこにはいた。その彼女に卒業したら東京へ来てほしいと手紙を書いたがそれは難しいという返事だった。私はますます孤独になっていた私は受験を控え勉強をしなければならないのに全く手に付かなかった。部屋の片づけや洗濯もおろそかになり食後の食器も流しにそのままの事もあった。そんな私に長兄はちゃんとやれと叱ったがその時ばかりはきれいに片づけてもしばらく経つとまただらしなくなった。そのたびに長兄に叱られた。私はそんな長兄に段々反抗心を持つようになった。そして勉強しなければいけないのに勉強しない、片づけなければいけないと分かっているのに片づけない、そんな自分に自信を持てなくなっていた。バスや電車に乗っても自分を見ている人がいるとおかしな格好をしているんじゃないかと他人の目が気になって仕方なかった。そのころ書き始めた日記にも自分に自信が持てなくなった、自分が何者か分からなくなった、と書いている。高校を卒業するまでそんな疑問を持ったことは一度もなかったが私は単純に浪人の身だからそう思うのだろうと考えていた。しかし私の中では何かが確実に変わり始めていた。私は勉強に身が入らず部屋にあった本を読み耽った。この本は長兄と一緒に住んでいた三兄,従兄弟達が置いて行った本だった。小説から哲学、歴史、心理学、人文学、学生運動などいろんな本が揃っていた。そんな中で私の目を引いたのは学生運動が激しかった昭和四十年代に二十歳の若さで自殺した立命館大学の学生高野悦子が残した日記「二十歳の原点」だった。その純粋さの故学生運動の嵐の中で自ら命を絶った彼女に私は共感するとともに自分も彼女のように死ぬのではないかという不安に襲われた。私が日記を書き始めたのは彼女の影響だった。私は自分の心にある何か得体の知れないものの正体を見つけるかのように他の本も読み漁った。しかしいくら読んでも答えは見つからなかった。それどころかますます混迷するだけだった。ただ高校時代に何気なく本屋で手に取ったゲーテの格言集が私の心を癒してくれた。難しすぎて分からないところもあったが理解し共感する部分も多くあった。それを読むと不思議と心が安らいだ。私は本の裏表紙に「吾が人生の羅針盤」と書き記し肌身離さずその本を持ち歩き事あるごとに開き目を通した。
Posted by mplan at 09:15 | Comments(0) | 小説